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埼玉県熊谷市 曹洞宗 熊谷山 報恩寺

曹洞宗

曹洞宗 熊谷山 報恩寺 報恩寺の歴史



お姫さまが建てたお寺

玉津留姫
玉津留姫
 むかし、報恩寺は「姉寺」とも呼ばれていました。どうしてそのように呼ばれたのかわかりませんが、報恩寺を建てた人が、ふたり娘の姉で、世にも美しいお姫さまだったことと関係があるかもしれません。そのお姫さまの名前を、玉津留姫といいます。
 その玉津留姫の父親は、平安時代の終りから鎌倉時代にかけて活躍した有名な武将、熊谷次郎直実です。
 武蔵の国・熊谷郷(いまの埼玉県熊谷市)に生まれた直実は、源氏の武将の1人として多くの戦いに出ましたが、なによりも一谷(いまの兵庫県神戸市内)でおこなわれた合戦で、敵の平敦盛という、16歳の武将をうちとったことが、よく知られています。けれども、戦さとはいえ、うら若き武将の首をうってしまった直実は、それ以後、このことを深くなやむことになりました。そして、とうとう武将であることをやめ、京都にのぼり、浄土宗を開かれた法然上人に入門して僧侶となったのです。
 残された家族が、悲しみの底につき落とされたのは、いうまでもありません。そのために、玉津留姫の母君は病気にかかり、亡くなってしまいます。そして、出家して生きわかれになった父直実も、やがて亡くなったという知らせが届きます。
 こうして両親を失った玉津留姫は、毎日泣きくらしたはてに、このうえは仏さまのお力にすがり両親の冥福を祈るはかないと、お寺を建てたのでした。それは建暦2年(1212)のことで、これが報恩寺のはじまりと伝えられています。


報恩寺の歴史

歴代住職墓地
歴代住職墓地
 熊谷山報恩寺が開かれたのはいまから780年前の建暦2年(1212)です。このころは、武士が天下をおさめる鎌倉時代になってまもない年にあたります。父の熊谷次郎直実にしたがい、日本中の武将がいずれかに属してたがいに戦いあった時代で、これが60年つづきます。全国が真2つにわかれて争ったこのころ、報恩寺も戦火につつまれて焼けてしまいました。
 報恩寺の長い歴史のうえで、最初におとずれた危機といえます。そのとき、由緒あるこのお寺が永遠に失われてしまわないように、その復興につとめた人がいました。そのころ関東管領をつとめていた上杉能憲です。関東管領とは、足利尊氏にはじまる京都の室町幕府が、関東地方の政治をとらせるためにつくった職です。
 南北朝時代が終りに近づいた永和4年(1378)、上杉能憲は報恩寺を建て直してまもなく亡くなりました。戒名は「報恩寺殿敬堂道謹大居士」といいます。
 やがて関東管領の職をうけついだ弟の上杉憲方も、報恩寺の復興に大いに力をそそぎました。こうして報恩寺の1大危機をすくっだ2人は、ふたたびお寺を興こし開いたという意味をこめて、「中興開基」という呼び名で、現在にいたるまで大切にまつられてきたのです。上杉憲方の戒名は「明月院殿天樹道含大居士」といいます。
 さて、南北朝の争乱が終って平和な世のなかが100年ほど続きましたが、平和とは言っても、ときどき争いはあったようです。特に大きかったのは、前関東管領の上杉禅秀が鎌倉に攻めこんだ時の戦いです。そして、報恩寺は、またまた戦火にあって焼けてしまいました。それは、応永23年(1416)のことでした。このことは、ずっと後の江戸時代後半の弘化2年(1845)にお寺を修復したとき、棟につかう材木に打ちつけた棟札(大正11年に発見された)に記されていたことからわかりました。
 さて焼け落ちてしまってから、約200年の年月が流れます。この間、報恩寺は玉津留姫ゆかりの寺として人びとに語り伝えられてきましたけれども、江戸時代の初めの寛永元年(1624)、熊谷上之にある龍淵寺の14世住職、萬矢大拶禅師は、報恩寺が熊谷の地に縁が深いうえ、鎌倉時代以来の歴史をもつということで、あらたに曹洞宗の寺院として開かれました。大拶禅師は、現在の曹洞宗報恩寺を開いたということから、「開山」と呼ばれてます。
 報恩寺は正徳5年(1715)には諸堂造営し伽藍が整いました。その後、弘化2年(1845)と大正13年(1924)には修復や諸堂の新築がなされ大伽藍ができあがりましたが第2次世界大戦終戦前夜の空襲でほとんど焼失してしまいました。市の中央に位置していた寺院は戦災復興都市計画に伴い移転のやむなきにいたり、昭和38年(1965)現在地に移り寺檀の尽力により本堂はじめ大伽藍を再建致しましたが、戦後に建てられた鉄筋の本堂は老朽化甚だしく、平成13年(2001)現在の本堂が改築され現在に至っております。


報恩寺の歴史

熊谷直実を中心として


保元 元年 1156 源義朝に従い保元の乱に初陣、勇を奮う
平治 元年 1159 平治の乱に参陣、敗れ、帰郷〈頼朝、伊豆に流さる〉
嘉応 元年 1169 長男・直家(小次郎)生れる
嘉応 4年 1180 〈頼朝、石橋山に挙兵〉直実、平家方の大庭景親の軍に加わる
〈頼朝、敗走〉(8月)
直実、頼朝軍に加わり、佐竹秀義攻めに武功を挙げる(11月)
元暦 元年 1184 宇治川の戦い(1月)直家初陣
直実、一ノ谷の戦いに平敦盛を討つ(2月)
文治 元年 1185 〈平家、壇ノ浦の戦いに敗れ、滅亡〉
  3年 1187 鶴岡八幡宮・流鏑馬で的立役を辞退
  4年 1188 長野・佛導寺縁起によれば、玉津留姫、善光寺へ旅立つ妙蓮と名のる
建久 元年 1190 敦盛七回忌・高野山に熊谷寺を建立
  3年 1192 久下直光と境界を争い、武士を捨てる
  4年 1193 上洛、法然上人の弟子となり、法力房蓮生と称す
  6年 1195 帰郷、念仏庵を館敷地に結ぶ
  7年 1196 法然を慕い、再び上洛
  9年 1198 京都西山・粟生野に光明寺の前身・念仏三昧院を建立
元久 元年 1204 上品上生を誓い、発願文を記す
承元 元年 1207 9月4日、武蔵村岡にて往(異説あり)

玉鶴姫・報恩寺を中心として


建暦 2年 1212 玉津留姫、父母の菩堤のため報恩寺を建立
恩徳稲荷のお告げを受け東方へ旅立ち焼津にて妹千代鶴姫と逢う
寛喜 3年 1231 8月3日、玉津留姫没す(福王寺の墓石からの推定)
戒名 佛導院殿一乘妙蓮大禅定尼
文永 11年 1274 〈元寇の役〉文永の役
弘安 4年 1281 〈元寇の役〉弘安の役
元弘 3年 1333 〈新田義貞、鎌倉を攻め、北条氏滅亡。鎌倉時代終る〉上杉能憲生まれる
    報恩寺、兵乱により焼失
永和 2年 1376 報恩寺立柱、復興
  4年 1378 上杉能憲死去、報恩寺殿堂敬堂道謹大居士を号す
永徳 4年 1384 能憲七回忌、弟・憲方により報恩寺仏殿完成
応永 23年 1416 鎌倉騒動により報恩寺焼失
天正
年間
  1573~1592 幡髄意上人、熊谷寺を建立(諸説あり)
慶長 5年 1600 〈関ヶ原の戦い〉
寛永 元年 1624 成田龍淵寺14世萬矢大拶禅師により熊谷に報恩寺開山(曹洞宗)される

熊谷の歴史とともに


正徳 5年 1715 諸堂造営
寛保 2年 1742 〈荒川、江戸時代県内最大の大洪水〉
寛政 3年 1791 忍城主阿部豊後守正識より山門扁額受「熊谷禅林」
弘化 2年 1845 大破した諸堂を檀越の喜捨により修復。この折、報恩寺の縁起を記した棟札が屋棟に差し入れられた
慶応 3年 1867 〈徳川慶喜、大政を奉還〉
明治 6年 1873 〈熊谷寺に小学校を開設、報恩寺に分校をおく〉〈熊谷県誕生〉
  9年 1876 〈熊谷県廃止、埼玉県に〉
  43年 1910 〈荒川大洪水(寛保2年以来の大水害)堤防決壊8ヵ所〉
大正 11年 1922 本堂屋根改修時弘化2年記の棟札を発見
  12年 1923 墓地現在地に移転
  13年 1924 銅板にて本堂屋根改修 寺内外の改修も終え荘厳感改まる
  14年 1925 本堂大広間修理 庫院新築(熊谷町大火641戸全焼)
  15年 1926 正門鐘桜の修復 倉庫門堀新築
昭和 16年 1941 〈太平洋戦争始まる〉
  17年 1942 大東亜戦争の為梵鐘供出
  20年 1945 8月14日、熊谷市、米軍機による空襲を受け、3630戸焼失、死者266人。報恩寺の諸堂灰燼に帰す

戦後の報恩寺


昭和 22年 1947 区画整理事業はじまり、報恩寺の敷地も整理の対象に
  28年 1953 焼津市より海産物を積んだ宝船届く
  30年 1955 田中一道、報恩寺22世住職に就任〔この間、寺院再建のための代替地取得の努力つづく〕
  36年 1961 現在地の土地取得、諸堂建設にかかる
  38年 1963 本堂、客殿、庫裏を造営
 昭和三十八年の寺の再新規造営に伴って本尊も釈迦佛をお迎えするようになったものと考えております。
 佛像彫刻に当っては大内青圃師の全面ご協力を賜わり釈迦牟尼佛摩訶迦葉尊者(釈迦佛の向って右側)、阿難陀尊者(釈迦佛の向って左側)の三尊像、更に、閻魔五体像山門の風神雷神十一面観音菩薩(石膏)、開山萬矢大拶像上之十四世龍淵寺住職高祖承陽大師像永平寺開祖道元禅師太祖常済大師像總持寺開祖螢山禅師玉津留姫像が次々と彫刻をなされ報恩寺に安置されたものです。
  39年 1964 入仏開眼の式挙行(10月14日)
  44年 1969 鐘楼堂、閻魔堂、開山堂、山門を造営
  56年 1981 天真閣造営。一道大和尚遷化す(12月2日)墓地(東側)拡大
  58年 1983 田中隆道、23世住職に就任
  63年 1988 永平寺貫首・丹羽簾芳禅師を拝請し、晋山式を挙行(4月)
平成 6年 1994 開基様供養塔、落慶式(10月10日) 
  7年 1995 袖引稲荷社、落慶式(5月7日)
  9年 1997 8月 墓地管理棟落雷焼失 平成10年8月再建
  12年 2000 地鎮式(11月20日)
立柱式(3月9日)
新本堂、上棟式(7月25日)
やすらぎ観音建立(8月25日)
23世田中隆道大和尚遷化す
  13年 2001 新本堂完成引渡受(7月26日)
  14年 2002 本堂落慶式典(5月6日)

ゆかりの人々

○熊谷次郎直実(1141~1208)

熊谷次郎直実
熊谷次郎直実
 熊谷次郎直実は、武蔵の国の大里郡熊谷郷に生まれました。はじめて戦場に出たのは16歳のときです。その後、直実は鎌倉幕府を開いた将軍源頼朝に、「日本一の剛の者」といわせたほどの武将となり、源氏と平氏との戦いにたびたび出陣して手がらを立てました。しかし、44歳のときの一谷の合戦で、わが子直家と同じ年ごろ、16歳の平敦盛の首を心ならずもうちおとすことになってしまいました。
 この事件は、直実の生きかたを大きく変えました。のちに幸若舞という芸能や、歌舞伎などで演じられ、人びとの心に大きな感動を与えることになります。
 やがて直実は、叔父久下直光との領地争いの裁判で主人の頼朝がくだした判決に不満をおぼえ、武士であることをやめて出家し僧侶となりました。もとはといえば、敦盛を討った心の傷が、出家へのきっかけになったとみられています。
 法然上人の弟子となり「蓮生」と名をかえた直実は、仏道ひとすじに生き、かねて自分が予告していた日に、念仏をとなえながら亡くなりました。蓮生か開いたと伝えられるお寺が今日も数多く残っています。


○上杉能憲(1333~78)

上杉能憲
上杉能憲
 上杉能憲は南北朝時代、北朝方の足利尊氏の敵になったり味方になったりして戦いましたが、やがて、父憲顕のあとをついで、室町幕府の重要な職である関東管領になりました。それから10年後の46歳のとき亡くなりました。


○上杉憲方(1335~94)

上杉憲方
上杉憲方
 康暦元年(1379)に関東管領となり、長年、関東の政治をまかされました。その家は、憲方が鎌倉の山内の住んでいたため、上杉一族のなかでも特に「山内上杉氏」と呼ばれ、権力をもつようになりました。